小林太市郎藝術論要約

 

昔は美学をやっているといえば、それだけで芸術家、文士、哲学者からバカにされた。戦後、新設の文学部に美学科の設置を見合わせた大学(北大、阪大等)がある中で、神戸大学は逆に「芸術学科」の名称のもと新しい学問の誕生を期待した。それに答えたのが小林太市郎先生である。(解説を要約)

 

 

小林太市郎氏についてはwikipediaで見てもらえば良いとして、芸術を掘り下げる時の基本文献がこの人の著作だと昨年(2016)月刊誌:『選択』の新連載によって知った。そこら辺の内容はBlog2に書くとして、ここでは『藝術の理解のために』小林太市郎著作集1から要点をピックアップ。

 

 

 もっとも藝術のたのしみは、じつは私にとってぜったいぜつめいのたのしみであった。それがなくては一刻も生きてゆけぬような楽しみであった。この真っ暗なわけのわからぬさびしい人生の途中で、自殺か発狂かの破局から私を救ったのは、いつも藝術であった。《略》 

 欲望はなかなか花園をつくらない。かえって地獄をつくりやすい。みたされない愛の欲望が、あくことをしらぬ名誉欲が、金銭欲が、狂おしい権勢の欲が、いかに救いのない地獄となるか、ひとはみなよく知っている。欲望は人を責めくるしめる地獄の獄卒といってよい。しかし藝術にかかると、この無慈悲な獄卒が急に一変して、世にも美しく楽しい花園をつくる園丁となる。(序文)

 

■生活と藝術

どんなにさびいし田舎へいっても、人は模様のある着物をきて、歌をうたい、祭りの太鼓をたたいて、盆踊りを踊っている。そこにすでに藝術がある。《略》人間の生活にとって重要な藝術というものが、はたして何であるか、それは人間の生活の中でどういうはたらきをしているのか、というようなことになると、人はあまり考えない。ただ漠然とそれは生活の美しい飾りであり、たのしいアクセサリーだあると思われるにすぎない。けれどもすこしふかく反省してみると、それがただ無益な飾り、あってもなくてもようようなアクセサリーでなくて、実は人間生活の最も基本的なはたらき、すなわちそれによって人間の生活がささえられているところの、その肝心かなめのはたらきにほかならないことがわかる。(P18)

 

■人間とは何か − 欲に手足の付いたもの

藝術がなんであるかを考えるためには、まず人がなんであるか、人間が本来どういうはたらきをするものであるかを考えねばならぬ。《略》 もっとも人間が何であるか、ということじたいがきわめて難しい問題であるが、たとえば西鶴の『好色二代男』には人間を定義して「欲に手足の付いたる者」といっている。《略》 しかし人間にはただこれらの自然的欲望、すなわち身体の行為をもって充たされる欲望があるのみではない。そのほかに、身体をもって充たしえない超自然的な欲望、すなわち神の欲望、永遠の欲望、絶対の欲望というふしぎな欲望があり、それがまた人をとらえてはなさない。(P19)

 

■欲望にはかぎりがないこと、

飲食を追い、金銭を追い、美女美男を逐い、神を追い、永遠を追い、そうしてついにへとへとになってその一生を終える。欲望が眼のまえにちらつかせる妖しい幻影をとらえようとして、それに引きずられ、振りまわされて、もがき苦しみ、ころび、たおれ、あがき、のたうち、泡ふき、醜態のかぎりをつくして遂に死んでしまうのが人間の運命ほかならない。(P21)

 

■欲望の自由な達成をはばむもの

かように人間の欲望にはかぎりがない。無限性ということが欲望の本質であるにたいして、その達成の道具となる身体の能力はきわめて小さく限られている。ぜんざいを思いっきり食べてやろうと欲望は意気込んでも、もう五六杯も食べれば身体の方でまずまいってしまう。愛人を思いっきり愛しようとはりきって立ちむかっても、身体の消耗はたちまちおこってくる。《略》 そういう身体的能力の制限のほかに、さらにきびしい経済的制限が、欲望の自由な達成を大幅に阻害する。(P26)

 

■満たされない過剰欲望の苦悩と藝術の救い

人間のたいていの病はそこから、すなわち抑圧された欲望から起こるのであって、《略》 限りある身に限りない欲望を担うことが、人間のあらゆる苦悩と病苦と不幸の原因となる。《略》 しかしここにひとつの救いがある。それは藝術である。藝術によって、人は満たされない過剰欲望の苦悩を、ふしぎな享楽にかえる事ができる。(P27)

 

■藝術の社会的効用

しかも藝術の享楽はただ個人にとってたのしいばかりでない。個人がそういう享楽にひたることは、じつは社会にとっても至上に必要で、それがなければ社会はたちまち崩壊する。みなが映画や小説で打ちあい、けんかし、たたかい、旅行し、恋愛するたのしみにひたらずに、そういう欲望をすべて現実の行為で満たしだしたら、いったいどうなるであろうか。もちろん社会生活はたちまち壊滅する。それを外から維持しようとするいかなる制約 − 道徳や宗教や法律や経済のいかなる制約も、あらゆる人間の欲望のこの凄まじい行為的奔出、その烈しい怒涛の勢いまえにはまったく無力となろう。

 

《略》 小説の中にはとにかく人間の本質的な欲望に訴える事実が語られているからである。《略》 それは仮空であるが、まさしく仮空のゆえに真実を説くことができる。《略》 もっとも小説、ひろく言って文学が未だ発達しない社会においては、宗教や呪術や神話伝説が主にこの機能をになっている。

《略》 たとえば音楽をみよう。ショパンの燃えるような情熱の曲に身もこころもとろかす人は、もうみみっちい現実の恋愛でその天上の至楽を汚そうとしない。ドピュッシーのほのかな、ふしぎな、はるかな夢のくにからきて魂をやさしく撫でさするような、心霊をやるせなく抱きしめるような、ただようような、ながれるような、ささやくような甘美なメロディーにふかく陶酔する人は、現実の行為がそういう愉悦をけっしてあたえないことを知って、まったく行為を嫌悪する。あるいはベートーベンの英雄交響楽で嵐のような行動の感激にくたくたになった人間は、なおそのうえに行動をしようとは決しておもわない。

 また絵画をみよう。たとえばブラマンクは暴動を起こして官庁に石を投げつける代わりに、絵具を思いきりキャンバスに投げつけて絵を描いたといっている。おかげで彼は投獄されるかわりに、なだかい画家となって悠々と生活した。ルノワールは女体を愛撫するかわりに、筆でキャンバスを撫でさすって幾多の裸婦の傑作をのこした。そして現実の肉体を愛撫するより遥かに深い快楽につねにひたりながら、すこしも精力を損せず、さいごまで若さにみちあふれて長生きを楽しんだ。ドロクロワは一生娶らず、孤高・謹厳の生涯を守ったけれども、製作の中では渦巻く情熱の嵐を奔激させている。

 

かように欲望にもっぱら造形させて、それを実際的行動に落とさないところに、絵画の藝術もまた成立する。藝術を知らない者はじっさいに行動であばれるから、自らは逮捕されて苦労し、また必ず他人を侵害する。そういうものが10人や100人のあいだはまだしもよい。大多数の人間がみな藝術をしらず、暴動や愛撫の欲望をただちに行動につうして暴れまわり撫でまわるならば、いったいどうなるであろうか。《略》 ほとんどすべての人間がみな本能的に、少なくとも潜在的に藝術家であればこそ、そういう行動過多の破壊が未だ起らず、社会も個人も今日まで健康に溌剌と生きてきたのである。(P109〜114)


 

■作品は「無」から生まれる

それで藝術の作品は必ずそれに相当する現実の行動を消している。その消却のうえに、その抹殺の上に作品が立っている。そこにまさしくその迫力がある。すなわち消されて無くなったものの抵抗、いわば抹殺されたものの執念が作品の中にこもっている。うごめいている。それがその迫力になる。ゆえに藝術の作品をみるとき、ただその形や色のみを見てはならない。その形色によって無にされたもの―その形色を成立させるために亡びたものの怨念を、そこに感受しなければならない。それを自らの体験に生かさなければならない。そして自らのうちに行き動くその怨念から、美しい作品の生まれでる変幻を如実に体験しなければならない。いずれにしても作品のために消されたもの、そのために無くなったもの、すなわち要するに「無」から作品の生まれ成立していること忘れてはならぬ。(P115)

 

■芸術は作品によって成立する。しかし、作品そのものはどこにもない

想像を楽しむだけでは藝術にならない。作品があってはじめて藝術になる。絵画や彫刻の作品を見つめ、詩や小説の作品に読みふけり、音楽の作品にきき入り、舞踊や演劇の作品をながめ、それらにさそわれ、みちびかれ、ひきいられて自己の想像をたのしく展開するところに藝術の鑑賞がある。《略》 ゆえに作品のない藝術というものはない。天(そら)の雲をながめてひとり空想にふけったり、宝くじの当せんをいつもひそかに想像したりするたのしみが未だ藝術といえないのは、それが作品によらないからである。

 

《略》 あらゆる藝術的活動はすべて作品を媒介として行われる。すなわち藝術活動を大別すれば創作と鑑賞との二種になるが、創作はもとより作品の創作であり、鑑賞はすべて作品の鑑賞である。ゆえに作品がなければ藝術もまた存在しない。ということは決して作品じたいが藝術そのもの、いわば全藝術であるということではない。ふかく考えれば、そもそも作品じたいというものがどこにも「無」にすぎない。

 

紙に文字を印刷した本はただ白と黒との物質であって、けっして作品じたいとはいえぬ。それは読まれてはじめて作品となるが、読まれなければつまりそれだけの物質に過ぎぬ。しかるに作品の読みよう、その感受のしかたは各人によってみな異なる。《略》 しかも私が去年読んだ『サランボー』は、いま読んできる『サランボー』では決してない。ゆえに唯一不変でぜったい同一の『サランボー』じたいというのはどこにもない。ただ、それを酔うんだ人の数だけ、またそれらの人がそれを読んだ度数だけの、一々別の無数の『サランボー』がじっさいにあることとなる。ジードやサルトルの示唆ふかいことばに、作品は作家と読者の合作であるというのも、またその意味にほかならない。すなわちそれがすでに読者との合作ならば、かならず読者の数だけの一々別のその作品があるわけで、そして読者をこえた作品じたいというものはどこにもそんざいしないことになる。ゆえにそれはいわば無で、無数の一系列の別々の作品がみなそこから生まれでる根源とはなるけれども、けっしてそれじたい自存するところの、一定不変の定形ある固形物のようなものではない。

 

 それは文学だけでなく、他のすべての藝術の作品についてもまた変わらない。たとえばの第九交響楽それじたいというものはどこにもない。だれがそれを演奏しても、またそれを演奏するたびに、一々異なる第九が作家と指揮者との合作によって、そのたびに新しく美しく活きいきと生まれ出る。《略》 またルーブルの壁にかかったモナリザの油絵そのものは、ただの油と布との物質にすぎない。油虫ならなめ荒らそうし、ねずみなら食い破るばかりで、そこになんらの作品じたいをみとめない。それが作品となるのはそれを見る人によってであるゆえ、ここにもやはり見る人が見る度数だけの、無数のモナリザのみがじっさいにあることとなる。そして万人にとって、つねに同一の、また永遠にわたって不変のモナリザじたいというものは、どこをさがしてもぜったに見当たらない。《略》

 

 それでは藝術そのものはいったい何であるかといえば、それは要するに鑑賞と創作との活動である。しかし鑑賞も創作も作品がなければ成立しない―鑑賞は作品に導かれての想像力の展開であり、《略》あらゆる藝術活動は作品を媒介として行われる、また藝術は作品によって成立する、ということができる。それは今もいったように、作品がただちに藝術であるという意味では決してない(多くの美学理論の混迷はこの誤解からきている)。たとえば、商業は商品によって成立する、また商業的活動は商品を媒介として行われる、というのと同じで、商品じたいがただちに商業そのものでは決してない。《略》

 

いずれにしても作品がなくては藝術は成立しないから、藝術を理解する鍵は作品にある。しかるに作品は創作されまた鑑賞されるが、その鑑賞と創作とはいったいどういう関係にあるのであろうか。常識の考えるように鑑賞を受動的、創作を能動的とすれば、両者は全く逆のになるが、はたしてそうであろうか。そもそもまた何故に、如何にして人は作品を鑑賞し、それを創作するのか、というようなことになると、やはり遡って人はなぜに、またいかにして想像するのかという問題へかえらなければならない。その問題を、私はこれまで主に何故にという効用、すなわち想像作用が人間の個人と社会とにもたらす無限の効用の面から観察してきた。そしてそれはまず第一に必要であった。

 

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さすが西田門下というべきか。芸術論を順番良くクリアにしてる。もちろん、全く別の体系=世界観を作ることも可能。たとえば、

・人間とは一時的に天上世界から地上に修行に来た身である

・芸術とは地上にいながら、天上世界の情景を形にしたものである

という体系も作れないことも無い。「人間とは欲に手足がついたもの」というのは極論だから、生理的に合う・合わないはあるかもね。チカン、セクハラとか考えると、確かに欲に手足がついた人間もいるが、そうじゃない普通の人もいる、という世界観も可能。ただ、「芸術を求める人は己の中に過剰を抱える人であり、芸術に縁遠い人は大きな不満もなくそこそこ満足した生活を暮らしている」というのは正しいとは個人的に思う。過剰というのが肉体的な欲求なのか、美的世界=天上世界=魂の清らかさへの欲求なのか、それは両方アリだと思うけど。

 

「作品は無から生まれる」の部分の

その形色によって無にされたもの―その形色を成立させるために亡びたものの怨念を、そこに感受しなければならない。それを自らの体験に生かさなければならない。そして自らのうちに行き動くその怨念から、美しい作品の生まれでる変幻を如実に体験しなければならない。

この部分は非常に感動した。そして、真のポイントは「芸術は作品によって成立する。しかし、作品そのものはどこにもない」の考察だけど、これこそがAIに大きく関係してくる部分。なので、Blog2の投稿で掘り下げます。

 

もちろんこの本には「魂」と「魄」で表現される美しい世界を求める精神的欲望、自己の生命の最大化を求める肉体的欲望の相克や、行為界から想像界への反転といったポイントも書いてあるけど、そこら辺は興味を持った人が読んでもらえばと思います。これだけ著名な本だから、大きな図書館にはあるんじゃないかな。

 

ただ一番はっきりしていることは、こういう芸術論は中学校の美術/音楽の時間の最初に学ぶべきであり、この著作集も夏目漱石の小説並みに文庫で手軽に手に入る環境になって、夏の読書感想文の課題図書ぐらいになるべきだと。この歳まで小林太市郎氏を全く知らなかったのは、僕の狭さ?周囲も誰も話題にしてなかったんですけど・・・ここまでショックなのは井筒俊彦以来。今回、これだけ大量に引用したのは、この著述が美術界に留まらず、今後の日本人の芸術への接し方のベースとなるべきだと思ったからです。

 

 




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