なぜアフリカン・アメリカンはキリスト教を受容したのか 〜歌と犠牲〜


横浜で開催されたGLory Gospel Singersのコンサートに行ってきました。毎年クリスマス時期に各会場で開催される本コンサート。首都圏に引越した年に昭和大学で聴いて以来の2回目。流石に2回目になるとコンサートを聴きながらも色々と考える余裕が出てくる。前回(2011年)に比べて、メンバーも変わったし、人数も変わったと感じるけど(厳密に比較できるほど覚えてない)、それはいい。

昔からずっと疑問だった「なぜアフリカン・アメリカン(アメリカの黒人達)はキリスト教を受容したのか」について、ヒント得たと感じた。それが一番の収穫でした。

世界三大宗教はキリスト教、イスラム教、仏教だけど、自分が本格的にしたのは仏教だけ。イスラム教については井筒氏の本のみ。キリスト教は体系的に学んだこともないし意欲もそんなにない。まだゾロアスター教のほうが興味ある。けど、実は凄く常識的なことだけでも、答えの骨格は出てくるのだと。

今回のコンサートでは歌に合わせて歌手の背後のスクリーンに色んな映像が投影されてた。そして、一番最初かな、ゴスペル曲に合わせて投影されたのが教会の内部の写真。それも普通以上に十字架に吊るされたイエス・キリストが大きく写っていて・・・。(注:左の写真はその雰囲気を伝えるためで、コンサートで写っていた画像ではありません)

アフリカ大陸から奴隷としてアメリカに連れて来られた黒人達にとって、キリスト教は「敵が信じる宗教」ではあるけれど、その本尊はサクリファイス:犠牲者なんだよね。日本人にとっても当然のことだけど、改めて考えると異常なんだと。もちろん細部を比較すれば釈迦だって前世で己の意思で飢えた虎の犠牲になっている。けど、これは一般常識じゃないし、普通に目にする釈迦像は全然違う。逆にキリスト像はガリガリの肋骨が浮き出ていて、ひ弱で十字架に吊るされている。

もしさ、キリスト像が丸々と太って/筋骨隆々で、そこら辺の王様像のように椅子に座ったり、立ち上がって手をあげているのが普通だったら、黒人達はキリスト教なんて受容しなかったのでは?? と感じた。たとえばリオの有名な像とかね

 

 


そして歌。聖歌を黒人達がアレンジしたのが、そもそものBlack Musicの始まりだとは知っていたけど、イスラム教の知見が増えると、イスラム教には歌が殆どないことに、改めて気づいた。家に帰って調べるとやっぱりそうなんだね

ということで、あくまでも私の仮説なので、ここまでで。

 

純粋なコンサートとしては、前回(2011)に比べて男性歌手がイマイチ。以前は後半のソロパートでR&Bテイストな恋愛系の曲を歌った時に、「これだけ歌唱力があればソロでもやれる」と感じたけど、今回の男性陣は感じなかったなぁ。女性陣で上手な人はいたけれど。逆にラップのパートが新しくあって、時代の変遷を感じる。良い企画だと思ったのは「Syasin OK」でコンサートの最後の方は積極的に携帯での撮影を奨励してたこと。SNS文化なご時世としては、こうやって拡散してもらった方が動員に繋がると感じた。
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日本人には一番縁遠いイスラム教だけど、長沼氏の本に面白い事が書いてあった。
西欧キリスト教文明自体が「光」というものを特別に重視する文化をもっており、特にゴシックの大聖堂などを眺めると、ステンドグラスを通って光が高い位置から、ほの暗い建物の中に差し込むその設計は、まさに光を意識して作られているという印象が強い。ちなみに他の文明の建築と比べると、例えばイスラム建築の場合、それは砂漠を渡る「風」を意識させる設計となっており、また仏教建築(特に日本の寺社建築など)は「土」とそこに生える草木がモチーフになっているという印象を受ける。つまり仏教建築=「土」、イスラム建築=「風」に対比すると、まさに「光」こそがキリスト教建築のデザインモチーフなのである(こちらの本のP82)

僕はずっと比較言語学と比較宗教学を追いかけてきたつもりだったけど、この短い文章に収められた知性と感性の鋭さ。風土が人間に与える影響としては一番の基本は和辻の「風土論」だけど、あの本であってもここまでの切れ味は無かった。長沼氏は物理数学畑の人なのに、なぜこんんなにも凄いのだろう。二十歳の時に感動して以来、ずっと目標にしてきたけど、全然この域に達する事ができなかった。。 イスラム教については日本人の一般常識としても「偶像崇拝の禁止」がある。だからこそ逆に発展したのがアラビア紋様。じゃあ歌の代わりは何か? ずっと謎だったけど、井筒氏はイスラムにおけるスーフィーが体現する踊りをとりあげている。トランス状態になるまで踊る事とある種の悟りを目指す志向性には惹かれてる。

一度だけ体験してるんだよね。
大学の最初に古武術を始めた頃、「とことん型稽古を繰り返すとある種の精神変容が起こる」って先輩から言われた。その時は、ホントかよ、と思ったけど、大学二年の一番稽古してたとき、深夜に2時間ぐらい稽古したあと、流しで水のんだら、カクンってなって、半幽体離脱状態になった。自分の頭のつむじがぼんやり見えている状態。「あ、これが、聞いてた状態か。本当に起こるんだ」 そのまま風呂に入ったけど、やっぱり自分の意識は風呂の天井にあって、自分自身を見ている。だからどこまで離脱できるか試してみたけど、全然だめ。部屋から出れるほどじゃない。結局、小一時間ぐらいで普通の状態に戻ってしまった。

そして、一番ショックだったのは、あの時以来、ある線以上稽古をやりこむと、「あ、そろそろあの状態に再びなれるかも」と思う。そして、思った瞬間に、それが発生しなくなるんだよね。幽体離脱への欲は幽体離脱を抑止する とでもいうべき経験。結局、あの一回きりの体験。その後、脳科学において角回を刺激すれば幽体離脱のような知覚が発生することを知った。だから別にオカルトでもなんでもない。単に特別な状態であって、脳に直接電気刺激をするのが難しいから普通の人が体験できないだけ。きっと、オリンピックに出たりプロになったりする人は、基本練習メニューをとことん繰り替えす中で、何回かあの状態になっているのだと思う。今の僕の生活ではあそこまでの稽古はもうできない。1回というのが自分の行けた地点。現代武道と違って段位が流派任せで比較できない古武術において、逆にこれがある種の客観的に指標になりうるのだと。

最近各地で流行っているよさこいも、とことん練習すれば幽体離脱になると思う。ブレイクダンスみたいな動きに自由度が高いものは幽体離脱が容易になるのか、困難になるのか、それすら良く分からないけどね。コーラスとか合唱のことは全く知らないけど、やりこむとある種のトランス状態になると聞いたことはある。結局、そういうものを備えているのが宗教なのかもね。
 



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